和田智行さんへのインタビュー(2020年5月1日)
高校生発 ロールモデルを見つけよう!の最初のインタビューは、
2020年5月1日、南相馬市小高区で起業している「小高ワーカーズベース」の和田智行さんです。
小高で起業、と最初に聞いたとき「??」と感じました。
2011年3月11日の東日本大震災と原子力発電所の事故の影響で住民が少なくなってしまったまちで、
ビジネスなど成り立つのだろうか。
和田さんってちょっと変わった感じの人なのか、威圧されるような雰囲気のある人なのだろうか。
どんな人なのだろうと、不安とワクワク感を抱きながら、インタビューの時を迎えました。
オンラインでインタビューを始めた画面越しの和田さんは、物腰の柔らかな、見るからに穏やかな方でした。
しかし、話を聞けば聞くほど、和田さんの起業家魂がひしひしと伝わってきました。
その落ち着きの中に、ビジネスを通した小高に対するアツい情熱や、
地域に住む人たちの自立を見据えた広い視野を感じました。
小高の100の課題から、100のビジネス創出へ
南相馬市内でも最も南に位置する小高区は、福島第一原子力発電所から20キロ圏内に位置しているため、
大震災から5年も経った2016年まで避難指示が出されていました。
避難指示解除前はインフラの復旧などで日中は人の出入りがありつつも、
営業している飲食店やコンビニすらない状態。
もともと小高で起業し、IT関連の仕事を手掛けていた和田さんは、まさにそこの課題に目をつけ、
避難指示解除前の小高で、作業員の方に温かいものを提供する食堂「おだかのひるごはん」を始めたのでした。
それを皮切りに、小高駅近くの仮設スーパー「東町エンガワ商店」、
ガラス細工アクセサリーの「HARIOランプワークファクトリー小高(アトリエiriser-イリゼ-)」の開業など、
実は私がFacebookやネットでよく見ていた小高での新しい動きを創っていた人だったのです。
そして今は、起業家の誘致や新しいコミュニティ事業に走り出しています。
(画像は小高ワーカーズベース・ホームページより)
地域の課題をビジネスの種へと発展
和田さんは、周りの人が「地域の課題」と口にすることが「ビジネスの種」に見えたそう。
そして、その種にだれも手を付けようとしない状況を、
かつて競争の激しい東京で働いていた和田さんはもったいないと思ったそうです。
そんなだれも手を付けようとしない課題にいち早く目を付け、解決のためのアクションを始めた和田さん。
やりがいは、地域の皆さんからいただく心のこもった気持ちと、
小さな事業でも人々が一緒に動いてくれる実感、そしてうまくいかないと思われていたことを成功させたときの快感だそう。
小高にはたくさんの課題がありました。
そのような課題の解決を、周りに任せてばかりいては継続的な仕組みにはならない。
それなら自分がやろう、ビジネスができる環境を創ろう、という想いで和田さんは起業を手段に選んだのでした。
復興支援というと、どうしても外からの支援を想像してしまいがちです。
そんな中、和田さんは外部の力だけに頼った復興ではなく、地域の「自律的な復興」を目指し
、ビジネスができる場所にすることで、まちを離れた方が再び戻ってきたくなるムーブメントを起こしています。
大学時代、坂本龍馬の大胆な発想と人を巻き込む力に憧れた和田さんは、
課題をビジネスとしてとらえる発想力と周りを巻き込む力を持って小高で起業を目指す人材を集め、
面的なネットワークを小高で生みつづけています。
高校生時代の和田さんから今の学生へ(エール)
新しい視点でチャレンジしていく和田さんは、どんな高校生だったのでしょう。
吹奏楽部に入部し、かなり打ち込んだ一方で、その分勉強がおろそかになり、
悩んだ末に部活は1年で辞めたと聞いたとき、部活と勉強の間で悩む和田さんの姿から、
私たちと等身大の悩みを持っていたことがわかり、少し身近に感じました。
それでも「部活ほど何かに打ち込んだことはない」と振り返っておられ、
「みんなで喜んだりできるあの一体感を求めて、今も仕事をしているのかも」
とつぶやいた和田さんの一言が印象的でした。
「勉強はしておいた方がいいよ!」という予想通りのアドバイスもしっかりといただきました。
最後に、「興味がわいたことに対してアクションが起こせることは大事だから、
常に好奇心を持って行動していると新しい活動に繋がっていくよ」と、今の私に響くメッセージも重ねていただきました。
和田さんの取材を終えて
次のインタビューも、乞うご期待を!! ロールモデルを発信していきます。