(2021年8月6日取材)
2021年4月29日、川内村にお花屋さんがオープンしました。
その名も『fuku farming flowers』。
経営者は、「福ちゃん」の愛称で、村の人々に親しまれている福塚裕美子さん。
少し話しただけでぐっと引き込まれるような、ハキハキとした明るい女性です。
大阪出身の福塚さんはひとりで川内村に移住し、念願だった花屋をスタートさせました。
今回は、福塚さんがなぜ川内村へ移住し、自身のお店『fuku farming flowers』を始めたの か、
現在までの歩みとともに福塚さんの思いを伺いました。
《花の力に魅せられて》
波乱万丈な福塚さんの人生。まず始めに、花屋さんになった経緯についてお話しいただきました。
福塚さんが生まれたのは大阪府貝塚市。全国的に有名なだんじり祭が盛んな町です。
土地柄もあり、学生時代は少々素行の悪かった福塚さん。家出を繰り返し、
高校は進学した3日目で退学に。
反省の様子がない福塚さんについにお母様の堪忍袋の緒が切れ、勘当されてしまいます。
「自分の力で生きていく」と心に決めた16歳の福塚さん。
商売には「アイテム」が必要だと考え、様々な仕事にトライし、自分に合った商売を模索します。
そして21歳のとき、出会いが訪れました。近所にできた花屋で働き始めた福塚さん。
植物の生命力やエネルギーに、心を強く掴まれたのです。
「誠実な植物に対して、自分も誠実にならなければ。」そんな思いがふつふつと沸き上がってきたのだそう。
福塚さんいわくこの時、花のお陰で”更生”。
長い思春期と反抗期が終わり、お母様との関係も修復します。
自分自身を含め、人をも変えてしまう花の力に圧倒され、これで商売をしていくと決心。
いつか生きていきたい場所を見つけ、そこで花屋を営むことを夢見ます。
《1度目の移住:村の復興のために》
川内村に来るきっかけは、2011年の東日本大震災。福塚さんが24歳のときでした。
その時東京の園芸店で働いていた福塚さんは、ニュースで見た地震や津波、被災地の様子に胸を衝かれます。
震災翌日には普通の生活が戻っていた東京と、ニュースに映る悲惨な状況の被災地。
このギャップに「何かしたい、でも何をすればいいかわからない」そんな思いに苦しみました。
そんな時、当時勤めていた東京の園芸店の同僚が被災地・川内村出身ということを知ります。
震災後の川内村に同僚と訪れた福塚さん。
そこには手つかずになった農地があり、
変わり果てた村の姿を悲しむ同僚の家族がいました。
福塚さんの心に、この村の原風景を取り戻したいという想いが湧きました。
そして、農業の支援活動をすることを決意したのです。
決断したらすぐ行動に移す福塚さん。
急遽購入した5万円の車に、自分のものを積めるだけ積みこみ、
愛猫とともに知り合いが一人もいない川内村へ飛び込みました。
生活するためプレハブ小屋を借りて、まず向かったのは川内村役場。
引っ越してきて仕事を探していると伝えると、村役場の臨時職員として
復興対策課の窓口で働かせてもらえることに。
移住1年目の2012年5月は、震災の影響で1年間米作りができない期間でした。
農業支援は来期にとっておき、先ずは村のコミュニティ作りに励みます。
役場の窓口の業務は、知り合いを増やしたい福塚さんにとってみれば絶好の場でした。
会う人皆に「福ちゃんです」と名前を売り続けて、知り合いをどんどん増やしていきました。
村の行事にも積極的に参加。バラバラになっていた村の若い世代を繋ぐべく、
自らソフトバレーチームも結成しました。
そして移住2年目の2013年は、いよいよ農業の支援活動を始めます。
役場を辞め、農業の任意団体を作りました。
明るいニュースを作りたかったという福塚さん。
独自の発想で様々なイベントを企画、SNSやブログでの発信にも力を入れました。
移住3年目の2014年は、もっと実務的な活動に切り替えます。
平日は専業農家さんのもとで、週末は兼業農家さんのもとで働きます。
これに並行して、なんと個人でも5反(約5000㎡)の田んぼを完全に1人で1からつくりました!
《感じた限界と挫折》
農業の支援活動をするために川内村に飛んできた福塚さん。
2年と10ヶ月間、川内村のために活動したのち、村を去ることになります。
そこには3つの理由がありました。
1つ目は、金銭面の限界。個人で支援に来た福塚さん。
費用はすべて福塚さんのお金から。活動すればその分、当然ながらお金は減っていきます。
イベント資金を賄うため、アルバイトも並行していました。
しかし、1人で補うには体力的にも限界があります。
借金もしましたが、それでもお金が回らなくなっていました。
2つ目は、ワーキングホリデー制度の年齢制限。
実はかねてより海外への憧れを抱いていた福塚さん。
ワーキングホリデー制度を使って、花の本場ドイツで働くという計画がありました。
しかしこの制度には31歳までという年齢制限があります。
このとき福塚さんは28歳。準備期間を考えると、期限が近づいてきていました。
3つ目、震災から3年目に入ってくると川内村には、大学、行政、NPOなど
様々な大きい支援団体が入り、人や物資など充実した活動が提供されてきました。
自分1人で出来る活動の限界をまざまざと感じた福塚さんでした。
「勝手に来て、なにもかも中途半端なままで去っていく自分。」
溢れてくるのは親切にしてくれた村の人たちへの罪悪感。そして自分への情けなさでした。
離村後は、名古屋の大きな花屋さんで働き、ワーキングホリデーのお金をためながら、
ドイツについての勉強をしました。
その間も川内村や村のみんなのことを思い出さない日は、1日もなかったといいます。
支援者として来ているとき、弱音も吐けず、お金も回らず、苦しかったそうですが、
村を去ってからはそれ以上に胸が締め付けられる思いだったようです。
《2度目の移住:大好きな場所で自分のお店を開く!》
ドイツの花屋さんで働くこともでき、非常に順調な日々を過ごしていた福塚さん。
就労ビザをとってこのままドイツの花屋で働く道もありました。
しかし、福塚さんは再び川内村に帰ってきます。
そこには、自身の本心に気付かされたある出来事がありました。
実はドイツに行く直前、村のみんなに報告すべく川内村に来ていた福塚さん。
旅立ちを告げるだけのつもりでしたが、自然とこんな言葉が溢れてきました。
「ドイツから戻ってきたら、絶対にここに帰ってきます!」
無意識の発言に、自らの本心を気付かされます。
『自分の帰る場所は、川内村なんだ』
以前の後悔や悔しさが、しこりとして残っていました。
ドイツの花屋さんから就労ビザの話が出たときには心が揺れたそうですが、
「一生かけて川内村で生きていくことで、自分で自分を許せる。心のなかの罪悪感を消していける。」
そんな想いもあり、帰国して川内村に戻ることを決意しました。
帰国後は、前回の反省を踏まえ、きちんとお金を貯めて、
7月7日の七夕の日に川内村に帰ると決めていた福塚さん。
約1年間、その日を目標にほぼ休むこと無く懸命に働きました。
そしてやってきた2018年7月7日、ついに川内村へ2度目の移住です。
今度は村の支援のためではありません。お花屋さんとして、自らの夢を叶えるためです。
住まいは築70年の廃墟になった保育園の1室。そこで移動式花屋さんとしての生活をスタートさせました。
SNSも駆使し、移動式花屋として着実にファンを増やした福塚さん。
そしてついに今年2021年4月に「fuku farming flowers」をオープンさせます。
福塚さんは「生きていきたい場所で自分の店を持つ」という夢を叶えました。
《高校生へのメッセージ__自分のための生き方》
【自分のやりたいことを追い求める「気持ち」と「行動力」】
情報化が進み、多様な選択肢がある現代の中で大切なのは、
やりたいことを探し続ける気持ちと行動力ではないかと語る福塚さん。
――目の前のことに全力で取り組んでみる。それでもしっくりこなかったらまた別のものに挑戦する。
この繰り返しでいつか自分の場所を見つけられるはず――
将来を考え始める時期の私たちにとって勇気の出る言葉を頂きました。
ちなみに、福塚さんの好きな言葉は「適材適所」だそうです。
【自分で考え、自分で決めて、自分で責任を取る】
「あなたはいつも事後報告しかしない」とお母様に言われてきた福塚さん。
誰かに言われたままに流されて生きると、困難が生じたときにきっと他人のせいにしてしまう。
自分で決めて行動することで、例え失敗しても、逃げずに向き合える、
自分の人生は自分で責任を取ると考えたほうが楽しいと笑顔の福塚さんです。
【自分のために行動すること】
自分のために行動する、これが1番大切だと話してくれました。
1回目の移住の際は「川内村のため」という気持ちで活動していた福塚さん。
しかし「○○のため」という意識は重荷になっていき、しんどかったそうです。
自分のために、自分がやりたいからやっていることであれば、
無駄な負担も生まれず自然体で頑張れるとおっしゃっていました。
自分の夢を叶えるために、大好きな川内村でお花屋さんとして過ごしている福塚さん。
本人は「自分のため」と言いますが、物事に真っ直ぐ向き合うその姿勢は、
間違いなく周りの人の心を掴み、みんなの幸せを作っていると感じました。
【高校生たちの感想】
次回もぜひご覧ください!
ロールモデルを発信していきます!